本はたべもの

〜純文学のこころみ〜

病を得て

病を得て~『風立ちぬ』by 堀辰雄 / 『冬の日』by 梶井基次郎

 

私の好きな本紹介 今回は『病を得て』というテーマを選んでみました。

 

 病と言っても、この二冊の主人公が患っているのは結核です。

 結核抗生物質の発明される昭和初期まで、日本では「亡国病」と呼ばれ、基本的に治療法はなく安静にするしかありませんでした。

 そんな死の病を得たとき、人の考え方はどのように影響されてゆくのか。

 堀辰雄は1904 (明治37) 年生まれ、梶井基次郎は1901 (明治34) 年生まれで同世代の作家です。二人の対照的な「病」の捉え方に注目したいと思います。

 

一冊目は風立ちぬ』by 堀辰雄

 

風立ちぬ/菜穂子 (小学館文庫)

風立ちぬ/菜穂子 (小学館文庫)

 

 

風立ちぬ

風立ちぬ

 

 

 ジブリ映画の原案にもなった作品。

 ちなみに本『風立ちぬ』のヒロインは「菜穂子」ではなく「節子」です。

 (「菜穂子」という作品は別にあります。『風立ちぬと同じ本に収録されていることも。)

 

 作品は、結核を患った節子がサナトリウムに赴いてから命を落としてしまうまで、節子の恋人である「私」の視点から描かれます。全体を通して透明感のある、はかなげな描写が特徴です。

 

 節子が描きかけの油絵のイーゼルを立てたまま草に寝転んでいると、突然起こった風がキャンバスを倒す…という場面はそれ自体を水彩画にしたくなるような詩的な魅力があると感じます。

 

「Le vent se leve  Il faut tenter de vivre (風立ちぬ いざ生きめやも)」という引用(原詩はポール・ヴァレリーによるもの)も印象的です。

 

 病に冒されているにもかかわらず、いや冒されているからこそ、美しさや純粋さをけがされない節子の健気な様子が描かれます。

 

突然、彼女が私の肩にかけていた自分の手の中にその顔を埋めた。私は彼女の心臓がいつもよりか高く打っているのに気がついた。「疲れたの?」私はやさしく彼女に訊いた。「いいえ」と彼女は小声に答えたが、私はますます私の肩に彼女のゆるやかな重みのかかって来るのを感じた。
「私がこんなに弱くって、あなたに何んだかお気の毒で……」彼女はそうささやいたのを、私は聞いたというよりも、むしろそんな気がした位のものだった。
「お前のそういう脆弱ひよわなのが、そうでないより私にはもっとお前をいとしいものにさせているのだと云うことが、どうして分らないのだろうなあ……」と私はもどかしそうに心のうちで彼女に呼びかけながら、しかし表面はわざと何んにも聞きとれなかったような様子をしながら、そのままじっと身動きもしないでいると、彼女は急に私からそれを反らせるようにして顔をもたげ、だんだん私の肩から手さえも離して行きながら、
「どうして、私、この頃こんなに気が弱くなったのかしら? こないだうちは、どんなに病気のひどいときだって何んとも思わなかった癖に……」と、ごく低い声で、独り言でも言うように口ごもった。沈黙がそんな言葉を気づかわしげに引きのばしていた。そのうち彼女が急に顔を上げて、私をじっと見つめたかと思うと、それを再び伏せながら、いくらか上ずったような中音で言った。「私、なんだか急に生きたくなったのね……」
 それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。「あなたのお蔭で……」
 
  節子の病状が悪化するなか、二人は時間の限られた愛を深めていきます。
  二人が一緒に夕陽を見るというセンチメンタルな場面を引用します。
そんな或る夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、同じように、向うの山の背に入って間もない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮かな茜色を帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。(中略)
「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。
「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
「本当にそうかも知れないわね」彼女はそう私に同意するのがさもたのしいかのように応じた。(中略)
 それから急にいままでとは異った打棄(うっちゃ)るような調子で、「そんなにいつまでも生きて居られたらいいわね」と言い足した。
「又、そんなことを!」
 私はいかにもれったいように小さく叫んだ。(中略)
「……あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだと仰(おっしゃ)ったことがあるでしょう。……私、あのときね、それを思い出したの。何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて」そう言いながら、彼女は私の顔を何か訴えたいように見つめた。
 
  健康な「私」が夕日の美しさに感動し、「長生きしてこんな風景をまた見られたらいい」と考えるのに対し、病に冒された節子は「そんなに長生きできたらいいわね」と悲観的であり、夕日が美しく見えるのは「自分が死んで行こうとしているからだろうか」と考えています。 
 
 この後、季節が移ろうに連れ節子の病状は悪化し、「私」はその間に感じた「思想」を本に書き留めてゆく…という筋書きです。全編を通して、水彩画のような色彩で描かれ、映画にしたくなるのもわかる気がします。
 
 二冊目は『冬の日』by 梶井基次郎
 

 

冬の日

冬の日

 

 

檸檬 (新潮文庫)

檸檬 (新潮文庫)

 

 

 こちらも短編です。
 主人公の堯(たかし)は結核を患っています。
 二階の間借りの四畳半に一人で暮らしていますが、病による血痰や激しい疲労感のため、午後になって少し起き出し外出するだけの生活です。「午後二時の朝餐」と、堯はその状態を「ロシア貴族のようだ」と皮肉のように表現していますが。
 長い病気生活の中で生きる希望を失い、きれいなものや美しいものに惹かれながらも、孤独と絶望に包まれてゆく堯の姿が描かれます。
 
 たまに友達の折田が尋ねてきても、快く応対する気力が堯にはなく、卑屈な対応をしてしまいます。
「この頃学校じゃあ講堂の焼跡をこわしてるんだ。それがね、労働者が鶴嘴(つるはし)を持って焼跡の煉瓦壁へ登って……」
 その現に自分の乗っている煉瓦壁へ鶴嘴を揮(ふ)るっている労働者の姿を、折田は身振りをまぜて描き出した。
「あと一と衝(つ)きというところまでは、その上にいて鶴嘴をあてている。それから安全なところへ移って一つぐわんとやるんだ。すると大きいがどどーんと落ちて来る」
「ふーん。なかなかおもしろい」
「おもしろいよ。それで大変な人気だ」
 らは話をしているといくらでも茶を飲んだ。が、へいぜい自分の使っている茶碗でしきりに茶を飲む折田を見ると、そのたび彼は心が話からそれる。その拘泥がだんだん重く堯にのしかかって来た。
「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。咳をするたびにバイキンはたくさん飛んでいるし。――平気なんだったら衛生の観念が乏しいんだし、友達甲斐がいにこらえているんだったら子供みたいな感傷主義に過ぎないと思うな――僕はそう思う」
 言ってしまって堯は、なぜこんないやなことを言ったのかと思った。折田は目を一度ぎろとさせたまま黙っていた。
「しばらく誰も来なかったかい」
「しばらく誰も来なかった」
「来ないとひがむかい」
 こんどは堯が黙った。が、そんな言葉で話し合うのが堯にはなぜか快かった。
「ひがみはしない。しかし俺もこの頃は考え方が少しちがって来た」
「そうか」
 
 
 病のせいで友達との付き合い方も変わってしまう、そのリアルな様子が伝わってきます。外出する範囲が限られている中で、「誰も来ないのをひがむ」というのが堯の本心なのかもしれません。
 
 夕方に家を出て、堯は壮大な景色が見たいと知らない街をさまよいます。
 
彼の一日は低地を距(へだ)てた灰色の洋風の木造家屋に、どの日もどの日も消えてゆく冬の日に、もう堪えきることができなくなった。窓の外の風景が次第に蒼ざめた空気のなかへ没してゆくとき、それがすでにただの日蔭ではなく、夜と名付けられた日蔭だという自覚に、彼の心は不思議ないらだちを覚えて来るのだった。
「あああ大きな落日が見たい」
 彼は家を出て遠い展望のきく場所を捜した。歳暮の町には餅搗(もちき)の音が起こっていた。(中略)
 日の光に満ちた空気は地上をわずかも距(へだた)っていなかった。彼の満たされない願望は、ときに高い屋根の上へのぼり、空へ手を伸ばしている男を想像した。男の指の先はその空気に触れている。――また彼は水素をみたた石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかへパッと七彩に浮かび上がる瞬間を想像した。
 青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされないの心の燠(おき)にも、やがてその火は燃えうつった。
「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」
 彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。燃えた雲はまたつぎつぎに死灰になりはじめた。彼の足はもう進まなかった。
「あの空を涵(み)たしてゆく影は地球のどの辺の影になるかしら。あすこの雲へゆかないかぎり今日ももう日は見られない」
 にわかに重い疲れが彼に凭(もた)りかかる。知らない町の知らない町角で、の心はもう再び明るくはならなかった。 
 
 『風立ちぬ』が四季の移ろいが色鮮やかに描かれていたのに対し、こちらは題名通り『冬の日』、寒々とした冬の景色が淡々と描かれています。
 
 また、『風立ちぬ』では節子が死を想像しながら見る夕日が刹那的な細孔伸びとして扱われていました。一方、『冬の日』では堯が「あああ大きな落日が見たい」と、苛立ちながら切実に願望しますが、結局堯は、重度の疲労のために見晴らしがよい坂の上にたどり着けず、その叶わなかった望みは堯に決定的な絶望をもたらします。
 
 同じ夕日でもこれだけ描かれ方が違うんですね。
 
 引用した箇所で、この短編は終わっています。堯に救いは訪れません。
 
 ちなみに、作者の梶井基次郎は主人公の名前に「たかし」を使いがちなのか、私が読んだ『檸檬』(新潮文庫)に収録されている短編群には様々な漢字の「たかし」が登場します。堯、孝、喬…と、いろんな「たかし」に会えるので面白いですよ。
 
 最後に…結核が流行ったのはもう昔のこと、という認識が広まっていますが、今でも日本では年間1.5万人以上が罹患しており、「中蔓延」という段階にあります!(先進国の中でもきわだって高いレベルです)
 予防や感染拡大の防止の意識を忘れないようにしましょう!
 
 
 
 
 

就活小説!

就活小説! ~『格闘する者に〇』/ 『彼岸過迄

 

私の好きな本紹介 今回のテーマは『就活小説!』です。

趣向の違う二冊を選んでみました。どちらも深刻になりすぎず、それでも少し考えさせられる、そんな作品です。

 

一冊目は『格闘する者に〇 』by 三浦しをん

 

格闘する者に○ (新潮文庫)

格闘する者に○ (新潮文庫)

 

 

 直木賞作家 三浦しをんさんのデビュー作。

 漫画が好きなことから、出版社に就職を希望する可南子が主人公。同級生の二木君や砂子と共に、堅苦しく、ときに理不尽な就活に挑みます。

 就活についてまわる「マナー」や「マニュアル」や「ルール」の数々に可南子たちも立ち向かっていくわけですが、とても書き口が鋭く痛快です。

まずは大手出版社、K談社だ。砂子も二木君も出版社を受けるので、これでも私たちはマスコミ試験用の「一般常識」問題集で、たまに研鑽 (けんさん) を積んできた。…中略… 「以下のタレントを、所属する芸能プロダクションに、それぞれ振り分けなさい」とあって、プロダクション名が四つ書いてある。そしてその下に、「ダウンタウン」や「池谷幸雄」や「森脇健児」ら芸能人十二人の名前があるのである。これのどこが「一般常識」なのだ。

…中略…

「マニュアル本」の類いは、砂子が近所の図書館で借りてきた。情報君の話は嘘ではなく、「平服と言われても、無難にリクルートスーツで」と確かに書いてあって笑ってしまった。

「この著者近影を見てよ。むちゃくちゃうさん臭いよね。肩書も横文字のものをはじめ、いくつもあってさ。バブル最盛期に入社して、業界で甘い汁を吸いまくって独立、って感じじゃない」

 砂子は容赦がない。

「こんな薄い男になんだかんだと言われたくないわよ、この不況のとき に。『無難』なんて言って、学生を平均値にならして、『僕の本を読んで会社に受かった人がたくさんいる』って言いたいだけだったのね。こいつの思う壺じゃないのさー」

 

 読んでいて笑ってしまいました。就活では、本音と建て前を使い分けなければならない場面が多いなと感じます。ちなみに可南子の併願は集A社です。

 

 面接に進んだ可南子がK談社内のエレベーターに乗るシーンがあります。

 

 一緒にエレベーターに乗り合わせた女子学生が、たまたま会った友達らしい子と、

「あっ、この雑誌、小さいころずっと読んでたよ」

「私も。なんか嬉しいね」

 と囁きを交わしていた。私も同じ気持だった。K談社の人が、途中の階で降りたり乗ってきたりするたびに、人々が忙しく立ち働いているのが垣間見られた。ふと先ほどの女子学生を見ると、彼女たちはそれを羨望と憧れの入り混じった眼差しで見ていた。私もそういう目をしているのだろうかと思って、おかしくなった。どんなに低い確率だとしても、受かってほしい、受かるんじゃないか、とはかない期待をしてしまう。無理に決まっていると冷静に判断する、ひんやり冷えたゼラチンのような部分の脳が、豆腐のようにおめでたい部分の脳を、笑ったのだ。

  素直な希望とあこがれと、それでも無理かもしれないという考えが入り混じった複雑な気持ち。好きなことを仕事にできたらいいけれど、全員にそれが叶うわけではないというのが現実です。可南子の就活も決して順調にいくわけではありませんが、それでも自分を信じて生きてゆこうと考えるようになります。

 笑えるところや辛辣なところはたくさんありますが、読後には肩の力が抜けるような、快適な幸福感がありました。

 

二冊目は彼岸過迄』by 夏目漱石

 

彼岸過迄 (新潮文庫)

彼岸過迄 (新潮文庫)

 

  (これを就活小説と呼んでいいのか、少し迷いはしましたが…、)

 夏目漱石が大病から生還した後に書かれた連載。ちなみにタイトルは、「元日から始めて、彼岸過ぎまで書く予定だから」とつけられたものです。

 

 大学を出て、社会でどうやって位置を見つけるか?ということを扱っている点で今回のテーマに通じるものがあると思い、選びました。

 

 舞台は明治40年、就活が今の形を取るよりだいぶ前のお話です。

 主人公の田川敬太郎は、大学を卒業したものの働き口がなく、どうにか社会での地位を手に入れようと、『位地の運動』(就職活動?) に取りかかります。

 友人のつてを頼ったり、電車で知らない街に行ってみたりと一生懸命奔走しますが、なかなか成果がない。もともとが浪漫好きな性格なので、奇妙なことや冒険心をくすぐるような出来事のほうに惹かれてしまう。少し引用してみます。

 元来彼が卒業後相当の地位を求めるために、腐心し運動し奔走し、今もなおしつつあるのは、当人の公言するごとく佯 (いつわ) りなき事実ではあるが、いまだに成功の曙光を拝まないといって、さも苦しそうな声を出してみせるうちには、少なくとも五割方の懸値 (かけね) が籠っていた。

…中略… 

まったくの空騒ぎでないにしても、郷党だの朋友だのまたは自分だのに対する虚栄心に煽 (あお) られていることはたしかであった。そんなら学校にいるうちもっと勉強していい成績でも取っておきそうなものだのに、そこが浪漫家だけあって、学課はなるべく怠けよう怠けようと心がけて通して来た結果、すこぶる鮮やかならぬ及第をしてしまったのである。

  就活をしなきゃしなきゃと言いながら、面倒とプライドのせいでどこか余裕をこいている。それなら少しは成績をとっておけばいいのに、大学生は怠けるのがいいんだなんて言って、ぱっとしない成績で卒業してしまった、というような内容です。

 いまでもよく聞くような話。大学生が今も昔も変わらないように思えて微笑ましかったです。

 いまひとつ真剣になっていない敬太郎ですが、一方で社会での位置がないことへの不安感のようなものを描いた箇所もあります。ある宗教家から聞いた出家の経緯を、敬太郎が思い出している場面。

この人はどんな朗らかに透き徹るような空の下に立っても、四方から閉じ込められているような気がして苦しかったのだそうである。樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見ても鮮やかに見えながら、自分だけ硝子張り (がらすばり) の箱の中に入れられて、ほかの物と直に続いていない心持が絶えずして、しまいには窒息するほど苦しくなってくるんだと言う。敬太郎はこの話を聴いて、それは一種の神経病に罹 (かか) っていたのではなかろうかと疑ったなり、今日まで気にもかけずにいた。しかしこの四五日盆槍 (ぼんやり) 屈託しているうちによくよく考えてみると、彼自身が今までに、何一つ突き抜いて痛快だという感じを得たことのないのは、坊主にならない前のこの宗教家の心にどこか似た点があるようである。

 外の世界からへだてられているような、一種の疎外感や閉塞感。

 大学生のうちは好きなことをしていればよかったのに、「自分のもっているもの」と「社会で求められているもの」に差異があることに気づいたときの感覚を描いているように思いました。

 

 この本は『位地の運動』だけの話ではなく、敬太郎がこの後 探偵の仕事を請け負ったり、高等遊民である松本との話が入ったりと、様々な人間模様が描かれます。

 文章も比較的読みやすいのでぜひ!

 

箱男と箱女

箱男と箱女~『箱男』/ 『歩く仏像』

本紹介の回です。

私が興味を持った本をテーマごとに2冊ずつ紹介していきたいと思います。

今日のテーマは『』、より正確に言うと『箱になる』です。

空想だからこそできる、非現実的な設定の中に「変身」がありますが、今日紹介する2冊はその中でも突拍子もない部類です。

 

1冊目は箱男』 by 安部公房

 

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 

 

安部公房は東大医学部出身の作家で、1951年に「壁」で芥川賞を受賞しています。

私は高校の教科書に「鞄」という短編が載っていた記憶があります。

箱男』がどんな本なのか、新潮文庫 裏面のあらすじより抜粋。

ダンボール箱を頭からすっぽりとかぶり、都市を彷徨する箱男は、覗き窓から何を見つめるのだろう。一切の帰属を捨て去り、存在証明を放棄することで彼が求め、そして得たものとは?

 冷蔵庫の空き箱のような、縦長の段ボール箱をかぶって路上生活をする 『箱男』 についてのお話。

『箱の製法』 の指南に始まり、箱男になってしまった人の例 (箱男と言うのは一人の人を指しているのではなく、「Aくんは箱男になってしまった」 のように、状態を表す言葉として使われています)、箱男である 『僕』 について、贋箱男の登場……などが様々な視点から、断片的な記録によって語られます。

 

 途中には新聞記事やメモ書き、モノクロ写真と詩のようなキャプション、など様々な記録がまじっていて、私はばらばらになった現実や想像が錯綜している感じを受けました。 

 読み進めるうちに、どこまでが願望や夢想で、どこまでが現実なのかわからなくなってくる。

同時に、どちらが見ている方でどちらが見られている方なのか、

どちらが書いている方でどちらが書かれている方なのかわからなくなってくる。

 

箱男が居眠りをするというようなシーンをすこし引用します。

文章はリズムがよく、詩的で好きです。

 

貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を見ると言う。

……中略……

貝殻草の夢が、やっかいなのは、夢を見ることよりも、その夢から覚めることのほうに問題があるせいらしい。本物の魚のことは、知るすべもないが、夢の中の魚が経験する時間は、冷めているときとは、まるで違った流れ方をするという。速度が目立って遅くなり、地上の数秒が、数日間にも、数週間にも、引き延ばされて感じられるらしいのだ。

 

 この後、夢の中の贋魚は、どうにかして目を覚まそうと水面への「逆墜落」を試みる、という話になるのですが、ここだけを説明するのは難しいので、ぜひ全篇を読んでみてください。

 

 次に紹介するのは、『歩く仏像』 by渡辺松男 歌集です。

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(残念ながらAmazon楽天では見つかりませんでした…)

渡辺松男は歌壇賞や寺山修司短歌賞などを受賞している歌人です。

ほかの歌集には『寒気氾濫』『蝶』『雨る』など。

今回は『歩く仏像』と言う歌集の中から、一冊目に取り上げた『箱男』に感化されて作られたという、『箱女』と言う連作を紹介します。

 

これも説明がしづらいのですが、この連作は「われ」と「われの恋人」がどちらも段ボールの箱であるという設定。ともかく数首引用します。

 

さみしそうにわれの恋人箱女側面をそっとすり寄せてくる

箱女を抱こうとする箱男懸命に手を四角に伸ばす

さみしさでいっぱいだよとつよくつよく抱きしめあえば空気がぬける

 

なぜか段ボールになると「さみしさ」がとても切実に感じられる気がして印象的です。人間の不器用さとか、思いの伝わりにくさとかが直に伝わってくる感じ。

渡辺松男さんは私の好きな歌人の一人なのですが、少し変わった視点の歌が多く想像力を刺激されます。

少し趣向の違う作品を、本のタイトルにもなっている 「歩く仏像」 の連作から。

てきとうなところで天道虫たちと休みましょうと歩く仏像

待っていると樹がやってきて葉を散らすたのしいなあここに誰もいなくて

きもち悪くてあたまのなかの鞦韆 (ぶらんこ) を吐きだしにけり空は青いのに

 この独特な感覚に興味を持った方はぜひ本を手に取ってほしいです!

何だかやみつきになります。

 

今回紹介した二冊で扱われていた「人が箱になる」 という設定は一見荒唐無稽ですが、

そんなあり得ない状況を仮定してみるからこそ、見えてくるものや強調されるものがあるはずです。それがフィクションの魅力だと思います。