病を得て
病を得て~『風立ちぬ』by 堀辰雄 / 『冬の日』by 梶井基次郎
私の好きな本紹介 今回は『病を得て』というテーマを選んでみました。
病と言っても、この二冊の主人公が患っているのは結核です。
結核は抗生物質の発明される昭和初期まで、日本では「亡国病」
そんな死の病を得たとき、
堀辰雄は1904 (明治37) 年生まれ、梶井基次郎は1901 (明治34) 年生まれで同世代の作家です。二人の対照的な「病」
ジブリ映画の原案にもなった作品。
ちなみに本『風立ちぬ』のヒロインは「菜穂子」ではなく「節子」
(「菜穂子」という作品は別にあります。『風立ちぬ』
作品は、
節子が描きかけの油絵のイーゼルを立てたまま草に寝転んでいると
「Le vent se leve Il faut tenter de vivre (風立ちぬ いざ生きめやも)」という引用(原詩はポール・
病に冒されているにもかかわらず、いや冒されているからこそ、
突然、彼女が私の肩にかけていた自分の手の中にその顔を埋めた。私は彼女の心臓がいつもよりか高く打っているのに気がついた。「 疲れたの?」私はやさしく彼女に訊いた。「いいえ」と彼女は小声に答えたが、 私はますます私の肩に彼女のゆるやかな重みのかかって来るのを感 じた。
「私がこんなに弱くって、あなたに何んだかお気の毒で……」彼女はそう囁ささやいたのを、私は聞いたというよりも、 むしろそんな気がした位のものだった。
「お前のそういう脆弱ひよわなのが、そうでないより私にはもっとお前をいとしいものにさせているのだ と云うことが、どうして分らないのだろうなあ……」 と私はもどかしそうに心のうちで彼女に呼びかけながら、 しかし表面はわざと何んにも聞きとれなかったような様子をしなが ら、そのままじっと身動きもしないでいると、 彼女は急に私からそれを反らせるようにして顔をもたげ、 だんだん私の肩から手さえも離して行きながら、
「どうして、私、この頃こんなに気が弱くなったのかしら? こないだうちは、どんなに病気のひどいときだって何んとも思わなかった癖に……」 と、ごく低い声で、独り言でも言うように口ごもった。 沈黙がそんな言葉を気づかわしげに引きのばしていた。 そのうち彼女が急に顔を上げて、私をじっと見つめたかと思うと、 それを再び伏せながら、いくらか上ずったような中音で言った。「 私、なんだか急に生きたくなったのね……」
それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。「あなたのお蔭で……」
そんな或る夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、同じように、 向うの山の背に入って間もない夕日を受けて、 そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮かな茜色を帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色に 徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。(中略)
「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。
「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなことがあったら、 それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
「本当にそうかも知れないわね」彼女はそう私に同意するのがさも愉たのしいかのように応じた。(中略)
それから急にいままでとは異った打棄(うっちゃ)るような調子で、「そんなにいつまでも生きて居られたらいいわね」と言い足した。
「又、そんなことを!」
私はいかにも焦じれったいように小さく叫んだ。(中略)
「……あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こ うとする者の眼にだけだと仰(おっしゃ)ったことがあるでしょう。… …私、あのときね、それを思い出したの。 何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて」 そう言いながら、彼女は私の顔を何か訴えたいように見つめた。
「この頃学校じゃあ講堂の焼跡を毀こわしてるんだ。それがね、労働者が鶴嘴(つるはし)を持って焼跡の煉瓦壁へ登って……」
その現に自分の乗っている煉瓦壁へ鶴嘴を揮(ふ)るっている労働者の姿を、折田は身振りをまぜて描き出した。
「あと一と衝(つ)きというところまでは、その上にいて鶴嘴をあてている。それから安全なところへ移って一つぐわんとやるんだ。 すると大きい奴がどどーんと落ちて来る」
「ふーん。なかなかおもしろい」
「おもしろいよ。それで大変な人気だ」
堯らは話をしているといくらでも茶を飲んだ。が、へいぜい自分の使っている茶碗でしきりに茶を飲む折田を 見ると、そのたび彼は心が話からそれる。 その拘泥がだんだん重く堯にのしかかって来た。
「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。咳をするたびにバイキンはたくさん飛んでいるし。―― 平気なんだったら衛生の観念が乏しいんだし、友達甲斐がいにこら えているんだったら子供みたいな感傷主義に過ぎないと思うな―― 僕はそう思う」
言ってしまって堯は、なぜこんないやなことを言ったのかと思った。 折田は目を一度ぎろとさせたまま黙っていた。
「しばらく誰も来なかったかい」
「しばらく誰も来なかった」
「来ないとひがむかい」
こんどは堯が黙った。が、そんな言葉で話し合うのが堯にはなぜか快かった。
「ひがみはしない。しかし俺もこの頃は考え方が少しちがって来た」
「そうか」
彼の一日は低地を距(へだ)てた灰色の洋風の木造家屋に、どの日もどの日も消えてゆく冬の日に、 もう堪えきることができなくなった。 窓の外の風景が次第に蒼ざめた空気のなかへ没してゆくとき、 それがすでにただの日蔭ではなく、 夜と名付けられた日蔭だという自覚に、 彼の心は不思議ないらだちを覚えて来るのだった。
「あああ大きな落日が見たい」
彼は家を出て遠い展望のきく場所を捜した。歳暮の町には餅搗(もちつき)の音が起こっていた。(中略)
日の光に満ちた空気は地上をわずかも距(へだた)っていなかった。彼の満たされない願望は、ときに高い屋根の上へのぼり、 空へ手を伸ばしている男を想像した。 男の指の先はその空気に触れている。――また彼は水素を充みたし た石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、 その空気のなかへパッと七彩に浮かび上がる瞬間を想像した。
青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされない堯の心の燠(おき)にも、 やがてその火は燃えうつった。
「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」
彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。燃えた雲はまたつぎつぎに死灰になりはじめた。 彼の足はもう進まなかった。
「あの空を涵(み)たしてゆく影は地球のどの辺の影になるかしら。あすこの雲へゆかないかぎり今日ももう日は見られない」
にわかに重い疲れが彼に凭(もた)りかかる。知らない町の知らない町角で、堯の心はもう再び明るくはな らなかった。